外国で日本の話をすると、遠い場所の話になる。あるような、ないような遠い場所。「小田急線」も「お寺」も「じゃりン子チエ」も、エキゾチックな、遠い場所の言葉として、外国人を夢想に誘う。
逆に日本では、英語やイタリア語が夢想の言葉だ。原語の中では何でもない言葉が、日本語の中だけの、最新の夢想をこめて使われる。「スキル」とか、「スイーツ」とか。それは数年で使い古されて、また新しい夢想語が台頭する。
土地に根づいた言葉には、夢想はない。使い古されもしない。言葉の群れの中で、並んだお地蔵さんのように、じっとしている。
妻や日本を訪れたNYの友人は、「ラースン」という場所について楽しそうに話す。摩訶不思議な小物と、少し体に悪そうな食い物が並ぶ、やたら明るい空間。あれって日本の縮図だよね、と夢想が始まったりする。それは、僕らにとってはただの、ローソンでしかない。
朗読で使った「大塩平八郎の乱」「おかげまいり」「安田善次郎暗殺事件」などの言葉もそうだ。「なんだっけ、それ」というくらいの、日本語の隅のほうで、じっとしている言葉。それらに、新しい光を当ててみた。おもしろい影が伸びたかなあ、と思う。
第九夜は木暮さんの、手に汗握らせる朗読で始まった。モニターの前の僕らは釘付け。心配しながらも大笑いしている真城さん。まじで? という顔のボーちゃん。おかげで舞台の空気は完全にリフレッシュされて、序盤から完成度が高かった。
間違いとかは、悪くない。アンコールは、彼のワウワウの効いたギターを入れて、いちごが染まる。