たぶん朗読とは、「書いた人の気持ちになって読む」なんてことではなくて、「書いた人の気持ちは無視して、書かれた記述の中にある力を解き放つ」みたいなことかと思う。クラッシック音楽の演奏者が、楽譜の中にある力を解き放つように。
最終夜、やくしまるえつこさんはそういう朗読をしていた。うまいなーと思ったのは、僕だけではないはず。
アンコールのブギーバックは、音の小さな生楽器群と彼女の軽やかなラップがうまく合って、すーっと紙飛行機のように飛んだ。終わってクールに舞台を去る彼女を引き止めてフィストバンプする(拳をぶつける)と、思わずニッと笑ったやくしまるさんも良かった。
アンコール後は毎夜、指弾きで東京の街が奏でるを歌って、暗転して終わる。この日は暗転の後、拍手で呼び返されて、引っ込んで、さらにもう一度呼び返された。去らない満員のお客さんを見渡す舞台に戻ると、まるで目の前に字幕が出たように、ああ、ここで「日常に帰ろう」と言うんだな、とわかったので、そう言った。
声は空間をつくる。十二夜のあいだ、このすばらしいホールを満たしていたのは、舞台上から、舞台裏から、楽屋廊下、客席、ロビーから響く声。その声がつくってきた空間は、先の日常へ開いていた。
僕にとっての日常はまず東京を発つ荷造りで、航空券はNY経由でマイアミまでだったので、二月に来た時には必要だった冬物と機材関係を抜くと、荷物はあれ? というほど少なかった。千葉から懐かしいニューヨークに着いて、JFKでの乗り継ぎの時間に、ギターだけ置きに帰る。近所のハンバーガー屋ででっかいチーズバーガーを注文して待っているあいだ、何もかも巨大な合衆国で、何もかもが小さくて、微妙で、それが当然だと素朴に思っている日本列島の街々にやってくる、新しい時を想像してみる。
それを、書いてみる。