今年で僕は十五年目の海外在住になる。住んだ街は、NYCを基本に四大陸に散る。だから東京の街には「帰る」という感触と、「行く」という感触がある。
「帰る」感触は、だいたい楽しい。「行く」感触には、時々、ひやっとする、こわい感じがある。いや、行くのがこわいのではない。それは東京にいる時に突然やってくる瞬間で、よく知っている近所の人を遠くの街で見かけたら、身なりも顔つきも笑い方も全く違っていた、というようなこわさ。
その人は、僕に気づいて話しかける時には、いつもの感じに戻っている。でも、それ以降、何かが変わる。
おそろしいことに、東京に住んでいる僕の友人の多くには、その違う身なり、違う顔つき、違う笑い方を伝えることができない。それは東京の街と僕だけの、お互いに守らなければならない、秘密のようになってしまう。
「東京の街が奏でる」の歌詞の、
壊れてしまったかつての天才たちが 嘘をつく
東京の街のどこかで
という部分を歌うのは、心が重くて、だから歌いたかったし、伝わって、何か絵が浮かんだ人も多かったと思う。絵は人によって違うだろうけれど、大きくは違わないのかもしれない。
第二夜のオープニングはGAMOさん。そもそも彼が「せっかくだから演奏しようよ」と言い出したために、予定外のアンコールが残り十一夜、続くことになった。第二夜は彼の重みのあるテナーを加えて、「ドアをノックするのは誰だ?」。
この曲を春に歌うのは気持ちがいい。