むしろ訪れて怖いのは、デモが起こらない街です。いわゆる独裁者が恐怖政治を敷いている街では、デモは起こりません。そのかわり、変な目くばせが飛び交います。
人びとは暗号のような言葉で喋ります。ある中東の王国の街で話していたら、友人が「いやあ、今の王様と先代の王様を比べたら、俺は先代の王様の大ファンだね」と言って、こっちに強いめくばせを送ってきたことがあります。
どういうことかと言うと、彼は今の王様の政府が大嫌いなのです。その王様がペコペコと頭を下げてアメリカの言いなりになっていることが嫌いで、そのアメリカと軍事連携しているイスラエルが嫌いで、根底からぶっ壊してしまえと思っているのですが、それを口にしたら誰が警察の手先で、いつ通報されるか分かりません。なので「先代の王様のファン」と言って、目くばせを送るのです。
ところがそういう街で、突然でっかいデモが起こって、血まみれの戦いになったりします。
デモが起こらない、表面上は静かな都市には何か深い、暗い理由があることが多いと思います。まあどこかには理想郷のような国があって、みんなが笑って暮らしているのかも知れないけれど…。
デモが起こる都市より、デモが起こらない都市の方が怖いです。
東京も割とデモが起こらない都市で、デモの起こるニューヨークやメキシコシティーから帰ると、正直言って不思議というか、中東の王国を訪れた時のような、ちょっとした緊張感がありました。
抗議するべき問題がないからデモがないのか。それともどこかの王国のように、心理的に、システマティックに抑えこまれているのか。何か他の理由があるのか。ひいき目も人情もあって、客観的に見ようとするのは、結構勇気のいることです。
でも最近は毎週金曜にデモがある、とか聞くと、そうか、東京も「世界標準」に戻ってきているのかな、と感じます。
抗議に慣れていない街なので(昔は凄かったのに。いや一九五〇年代とかではなくて、東京が凄まじかったのは戦前です。相次ぐ革命運動! 次々と首相暗殺! …というモノローグは「東京の街が奏でる」でやりました)、不安もあると思いますが、理由はどうあれ、しつこいですが抗議行動が起こるのは世界の大都市では普通です。交通事故という問題を解決した人がいないように、くり返される抗議運動を解決する人もいないでしょう。
体に熱が出るように、社会に抗議は起こります。
さて、熱にはクスリで鎮める対処法と、わざと熱を出させてしまう対処法があります。
抗議運動への対処法も似ています。一つは、警棒でぶっ叩いて鎮める方法。これは後にしこりが残ります。でも、多くの都市では大抗議が起こると地元の警官ではない警官たちが導入されて(しがらみがないし、後で住民と顔を合わせることもないので)、基本的に武力で威圧して事態を鎮めます。
もう一つは、熱を出させる方法。わざと、みんなのお腹の中のムラムラを吐き出させてあげる方法。これについては「うさぎ!」別冊の「企業的な社会、セラピー的な社会」で詳しく触れています。
洗練された、進んだ対処法は、この「上手に熱を出させる」ほうだと思います。
さっき、ひと夏に八百のデモがメキシコシティーではあると書きました。メキシコは全国でデモが盛んな、社会意識の極めて高い国です。
多くのデモが起こるから、メキシコはどんどん「革新的な」「左寄りの」社会になっていくか? というと、実はそうでもないのです。先日の選挙の結果、メキシコは大きく「古い体質の」「保守的な」「右翼的な」体制になりました。
保守的なのがお好きな方は、叩きのめすだけでなく、熱を吐き出させて対処する方法もあることは、知っておいた方がよいと思います(まあ、頭の良い人はとっくに知っていますが)。
逆に保守的なのが嫌いな方は、熱を全部吐き出してしまわないように、熱を体の中に残しておくように、する必要があるのかもしれません。
もう一つ、日本語でも遂に「対案」とかいう言葉が流れ出したので、二〇〇八年の「うさぎ!」第十一話で既出の話ですが、書いておきます。
今の世界は、どこの国でもアングロ(イギリス)・アメリカ型の人間管理手法をコピペする世界です。日本だけが例外ということはなくて、「説明責任」とか「トリックルダウン」とか、そんな日本語あるの? みたいな言葉が、人間管理手法の輸入ととともに、日本語の中に入ってくることに気づいている人も多いと思います。
イギリスは人間管理とか心理誘導の技術にとても長けていて、サッチャー首相の頃、八〇年代にはTINAと呼ばれる説得論法がありました。"There Is No Alternative"の略。訳すと「他に方法はない」ということ。「他に方法はあるか? 対案を出してみろ! 出せないだろう? ならば俺の方法に従え!」という論法の説得術。
しかし、これは変な話です。
医者に通っていてなかなか治らないとします。患者は文句を言います。「まだ痛いんですよ! それどころか、痛みがひどくなってます! 他の治療法はないんでしょうか?」と。
それに対して医者が「他の治療法? どんな治療法があるか、案を出してみろ! 出せないだろう? なら黙って俺の治療法に従え!」と言ったら、どう思いますか?
治療法を考えるのは医者の仕事ですし、治らなかったら医者を変えたり、漢方にしたりするのは自然です。患者がすべきことの一つは、痛い限りは「痛い!」と切実に訴えることです。その訴えを聞いて「これは新しい病気かもしれない」と気づいて治療法を見つける医者がいたりして、「医学の進歩」ってのがあるわけです。
患者が黙って、効かない治療を文句言わずに受け続けていたら、医学の進歩ってのはありません。むしろ医学は、痛みを訴える患者に感謝するべきところ。
同じように、社会をどうするか考えるのが職業の人は、人の「痛い!」という切実な声を聞いて、心を奮い立たせて問題に取り組むのが正しいはずです。
なのに一般の人が「この世の中はヒドイ! 痛い!」と声を上げると、「じゃあお前ら、対案は何だ? 言ってみろ! 対案も無しに反対するのはダメだ!」と押さえつける政治家とか専門家とか評論家とかがいるのは、むちゃくちゃな話です。
専門家同士が「お前の案は何だよ?」とやり合うのはわかります。お互いに怒り合うのが彼らの職業なのですから。
でもみんなが専門家になるべきでもありません。「何だか知んないけど痛いんだよ! どうにかしてよ!」と訴える人によって医学が進歩したように、ただ生きているのが痛いから抗議をする人は、「世の進歩」の一部を担っていると思うんですが、どうでしょうか。
音楽では、楽器も弾けない人に「あのアルバムは駄作だ!」なんて批判されるのは普通です。それに対して僕らが「じゃあ対案は何だ? 言ってみろ! お前が良いアルバムを作れないなら、黙ってろ!」とやり返すことがあるでしょうか?
そんなことをするのは、よっぽど才能のない人だけだと思います。
それに、今の社会だって、最初からはっきりした「案」があって、その通りに出来てきたものではないのです。「とりあえず」とか「現場との折り合い」とか「意外な展開」とかが重なって、今の世の中が出来ています。
社会は巨大なものなので、最初から細部まで予測できる人なんていないし、予測できない細部が、決定的な違いを作ったりします。
だから、事前からみんなを完全に納得させられる「対案」を持っていた人なんか、実は歴史上いたことがないと思います。
過程、プロセスの中から、現実が生まれる。荒っぽさとか、偶然を経て。
思い当たる人は、多いと思います。
僕は訪れている街でデモが起こっていたら、とりあえず行ってみます。デモの現場は、騒がれている問題以外にも、その街の暮らしにどんな問題があるのかわかりやすい空間です。みんながワアワアと、饒舌になっているし(外国人が抗議運動に行くのは違法な国もあるので、行く人は気をつけて)。
そこで見かけるのは—
自分の政党に勧誘するのに熱心な人
その場のリーダーであることに酔ってる人
不気味な人
すてきな人
すり
物売り
ミュージシャン(必ず)
情報収集員(各国、各社の)
武器を持った人(警官は合法。その他は違法。)
乞食
そして大勢の、本当に大勢の、大人や子ども。
ブルックリン、ニューヨーク
二〇一二年 七月十一日 小沢健二
「原発問題」については昨年七月の第二十四話で書いています。興味のある方は図書館などで読んでみて下さい。「我ら、時」にも、もちろん、入っています。
(横書版七月十四日掲載)